もの作りの傾向から見る日本社会

【ドイツ製品を考えてみた】
150813ウルト社
先日ご紹介したウルト社のカプラー。
やっぱり良い出来だ。
引っかかって2つのパーツを固定する、ばねの部分である「爪」が大きいのが良い。取り外ししやすいのだ。
日本製だと、小さくて精密ドライバーなどでうまくはずさないととれなかったりする。
失敗して爪を折ってしまったことがある。

ドイツ製旧車に乗ってきた知人と話をしたら、ドイツ車の車載工具などもよくできているそうだ。
そういやBMWのバイク、ボクサーエンジン搭載GSにはエンジンヘッドのタペット調整まで車載工具でできるようになっているとか。
ドイツのもの作りの思想は、「誰でも運用できる」ようになっていることなのかも、と感じた。

【日本製品に見る「甘え」】
それに対して日本製は使う側にも「慣れ」や「技術」を要求する。
日本製でも、外国向け製品はシンプルな操作系インターフェイスなのに対し、日本向け家電はスイッチがやたら多かったりする。
それは日本人の個々の能力が高いからなのだろうと思う。
あと日本人がそういうところにロマンや美意識を感じている節もある。
でも、上記のカプラーなどを見ると、日本のもの作りには、ある意味「ユーザーへの甘え」が存在する気がする。

【アメリカ人の考え方】
私が幼い頃、私の父はアメリカ某資本が関係する大遊園地に設置するジェットコースターの鉄骨製作を担当することになった。
その衝撃が彼にはとても大きかったようで、私に話してくれたことをよく覚えている。
父はアメリカの設計通りに作ることを命ぜられた。
しかし、それは日本の技術者の常識とかけ離れたものだった。
なぜなら、その設計はどう見ても壊れるのだ。
壊れたら交換する仕組みになっている。
父はその通りに作った。
そして、運用を見て驚いた。
毎日の点検は当然として、点検記録も含めた運用体制が万全で、責任の所在が明らかになっている。
つまりだ、アメリカのもの作りとは、設計から運用に至るまで「個人を信頼していない」のだ。
よく言えば、個人に責任を押し付けすぎない仕組みなのだ。

【もの作りから見る日本の組織】
日本の組織にしか所属したことがないので外国の組織のことはわからないが、「縦割り」だなぁ、とつくづく感じてきた。
それは、ISO導入を経験してからなおさら強くなった。
半分公共のところでも、大企業でも隣の人が何をしているかわからない、なんてことが昔はあった。
それは、個人の力に頼りすぎている組織なのだと思う。
そして組織の責任を個人に押し付ける精神風土がある。
なにか間違いや失策をすれば、誰かを殺すまで追い詰めることに喜びを感じる心の底が日本人にはある。
それはもの作りと同じく社会の「甘え」なのだが、それを当たり前としているのが日本人だ。

零戦は洗練された美しく優秀な“飛行機”であった。
しかし、兵器としては欠陥だらけだ。
高い練度がなければ使いこなせず、生産は職人に頼り、被弾すれば生存性が低く、洗練されすぎてて発展性がない。
優秀なパイロットがいた初戦では成果をあげたものの、長く消耗戦になればその欠点が目立つばかり。
まさにそれが日本社会のもろさだと思う。
そして、その責任を個人に押し付け「特攻」という形で破滅への快感に酔った。
あまつさえ、現代においてそれを美化しようとする傾向を感じる始末。
日本社会は変わっていない。

日本がよくなるためには、もの作りというか生産の現場から組織の「甘え」を捨て去ることから始まるのではないだろうか、と考える。
個人に頼った運用をやめる、個人に責任を押し付け過ぎない。
誰もが運用も含めた「使うこと」を楽しめるもの作り、大げさだろうけれど、そこから何かが始まる気がする。

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

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なお

Author:なお
いいトシしてバイクの免許を取得。
相棒はDUCATI MONSTER696とHONDA solo。
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