限界を超えちゃだめ

GW前半3日連続の長時間練習を試してみましたが、結果やっぱりダメでして。
やっぱりこれまで使ってきた筋肉はそれなりに鍛えられているのでダメージが薄いのですが、今練習している曲で使う左右の橈側手根伸筋は多用するのがはじめてで相当のダメージです。

連休中日に鍼を予約していて、伸筋群、屈筋群にそれぞれ8本ずつ、掌(手の甲から刺します)にもかなり打ってもらい、2日休憩したのですが、疲労が抜けません。
やっぱり集中的な長時間練習というものは、効果が拡散するし、ダメージが大きくて後々へのマイナスへ作用する影響の方が大きいから避けた方が良いな、というのが結論です。

こんなことをチェックしていて思うのは、人間ってけっこう簡単に限界を突破しちゃうんじゃないかってこと。
我慢して限界を超えるのが正しい、みたいな風潮があると感じているのですが、疲労を我慢しておくと故障になります。
改善可能なら良いのですが、病院に行った時にはもうダメってこと多いです。
限界を超えるってそういうことだと思います。
そして、これまでそういう人を見てきました。
演奏以外でも。

皆さん、休みをとるのは良くないという心理があるみたいで、私のように休息をとる人は普通に非難されると思います。「気合が足りない」「だらしがない」みたいな理由で。

あと故障や病気から逃げたい心理が働いているようにも思えます。
ひき逃げ現場で、心理的に人を轢いたことをなかったことしてしまう人と同じことだと思われます。

そういうのは長期的な将来を見据えたときに合理的な判断ではないと考えます。
オリンピックみたいに「人生の今じゃなきゃダメなんだ」というなら理解できるのですが、やっぱりこの前の羽生選手とか外国人選手なら出ないだろうと思うわけです。

というわけで、私は人間はそう簡単に限界を超えちゃだめだし、「限界を超えるというロマン」は捨て去るべきだと思います。

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積み重ねの差

「神絵師は『ずるくない』! 神たちの努力量を分かりやすく説明した漫画がハッとさせられる」
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1804/28/news008.html

音楽もおんなじ。
結局は積み重ねの差。
取り戻そうとしても、私が調べた限りでは、おそらく効果のある練習は1日3~4時間が限界だと考えている。
なので「一日12時間練習して追い付くぞ!」というのはできないのだ。

ライフスタイルにも影響される。
眠らないで練習というのは意味がない。
なぜなら練習が短期記憶となり、それを長期記憶にする脳内処理は睡眠時に行われる。つまり質の良い睡眠が練習の一部なのだ。

あと一番大きなことは、子ども時代からやれたかどうか。
無意識という人間のOSが完成するのは、12~13歳頃。
それまでに練習した記憶は、OSの一部となり「一生もの」となる。
それ以降の練習効果は子供時代よりずっと時間がかかる。

結論として芸術系(おそらくスポーツも)は、子供時代からやらないとモノにはならない。

このあたり、そろそろはっきりさせた方が良い。
特に音楽は、だ。

ポピュラーミュージックの世界だってクラシック出身者が普通だ。
くるりの岸田さんはオーケストラでタクトを振るい、スカートの澤部さんも音大へ行っていた。
もはやレイトスターターが活躍できる場所はないのだ。

昔はそうじゃなかったんだけどね。
例えばビートルズが録音のためにクラシック演奏者を確保するのに苦労した頃とか。
当時は「ロックミュージックなんてやるのは沽券にかかわる」というクラシック演奏者が多かったらしい。
そういう時代がそのまんまつづいていると思っている高齢アマチュアミュージシャンは考えを改めた方が良い。ほんと、聞かせられる方は拷問に近いのだ。

かくいうロックだって、70年代でプログレまで行ってあっという間に行き詰まってしまった。
その反動で80年代にパンクが流行ったわけだけれど、音楽的には底が浅すぎて、一時のムーブメントを超えられなかった。

技術というのは常に進化するのが当たり前で、それがなければ、それを取り入れる姿勢がなければ死んだも同然なのだ。


であるのに、教室の先生からは「基礎練習って教えても誰もやってくれないんですよ。練習の95%は基礎なのに」とか「おじさんなのに『テレビに出られるようになりたい』とかいう人がいるんですよ」というボヤキをよく聞く。

絵はともかく、音楽って人に提供できるレベル(人の心を豊かにできるレベル)がものすごく高い。
実はそういう意味でハードルが高い芸術で、基本的にレイトスターターは人前で演奏するべきではないと考えている。

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「天才」とメンタルトレーニングの罠

高校の吹奏楽部を描いたアニメ作品「響けユーフォニアム2」で、主人公が毎朝一番早くやってきて練習している先輩に「練習が好きなんですね」と問う。
すると先輩は「わからない」と答えるのだ。

私は、なんとなくその先輩の言葉に納得できた。

おそらくその先輩が練習している理由はただの習慣だ。好きでも嫌いでもない。
練習と言うものは、日常の習慣にしないと効果が無い。

練習が嫌いという人は、そもそもその競技や演技が好きではないのだ。
「この練習を続けることで目標とするパフォーマンスを修得できる可能性が高まる」と考えていれば、練習を嫌いになるはずは無いからだ。
練習が嫌いという人で多いのは、その競技や演技が好きなのではなく、なんとなく「成功した自分」になりたいだけの人だ。

そして実は「好き」というのも諸刃の剣であると、メンタルトレーニングに関して調べて、そう考えるようになった。
「好き」が成功を望むことに繋がると、成功を願いすぎるあまり、本番で本調子を出せなくなったりする。
練習に依存しすぎて目標を見失うこともある。いわゆる手段と目的が入れ替わるというもの。
だから練習は、ただの習慣であるのがよろしい、と思う。

巷によくあるメンタルトレーニングでは「ポジティブ」や「自己肯定感」という単語が繰り返し出てくる気がするが、無闇やたらなポジティブや自己肯定に基づくメンタルは競技や演技に臨むに際して危険なものだと思う。
動作や認知にバイアスをかけるし、失敗したときにどうしても心が傷つく。

そもそも、「自己肯定感」という「根拠の無い自信」は存在しないらしい。自信の根拠はちゃんとあって、それは幼いときの環境らしい。
それは自分ではどうしようもできない。だからそれを持っている人は他人が何でそれを持てないのか理解できないし、持ってない人は生涯手に入れることはできない。
持っていない人もそれを持とう、というのが間違いであり無理なのだ。

そして自信とは何か?
心理学だと、人間は自分の評価を実際よりも高く見積もっているそうだ。そうしないと生きていけない惨めな生き物だ。
つまり自信とは客観よりも高い自己評価だ。
であるなら“自信が自分を高める上で邪魔になる”ことは容易に想像できる。


「森川(陽太郎)さんも言っていましたが無理に自分をポジティブの方向に持っていくのは僕も良くない気がします。」
錦織圭さん
http://blog.keinishikori.com/2014/07/post-228.html




実際のところ、メンタルトレーニングと言っても、あまり学術的に積み上げられたものではないらしい。
なんとなく心理学の理論にこじつけて、それっぽい人が言っているだけのように思える。
だから、こういう意見も普通に見られる。


「『負けず嫌い』と『自己肯定感』はスポーツ選手に必要な要素」
http://www.idear.co.jp/mental-column/sports/athletes-need-element

これをもっていないと「絶対に金メダルを取ることはありません」だそうだが、その根拠はどこにも書いていない。
もっともらしいことが書いてあるけど、本質的にはただの根性論で、なんの役にも立たない文章だと思う。

確かに根拠の無い自信にあふれた人は多いだろう。しかし、私は金メダリストに近い人ほど私が考えるようなある意味の「諦観」を持つ人が少なからずいるだろうと思う。
インタビューとかの対外的態度は別として。社会がパフォーマーにそういう姿勢を望んでいるから、それだけのことだ。

「別に負けてもいい」「どうせ自分が勝てるわけない」と思っている人の方がのびのびパフォーマンスできる、というほうが道理だ。
そんなことを言いつつ、本番でガチガチになるならやっぱり勝ちたいという欲が心の底にあるのだし、それが人間として自然だ。
だからこそ、金メダルを狙える位置で、本気で「別に負けてもいい」「どうせ自分が勝てるわけない」と思える者こそが本当に勝てる人間で、そういう人が「天才」と呼ばれるのだろう。


「俺は、絶対落ち込まないのよ。落ち込む人っていうのは、自分のこと過大評価しすぎやねん。過大評価しているからうまくいかなくて落ち込むのよ。人間なんて、今日できたこと・やったことがすべてやねん。」
明石家さんまさん
https://grapefruitmoon.info/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%AE%B6%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%BE.html



フローだのゾーンだといっても、日常でやっていること以上のパフォーマンスはできないのである。
目的とするパフォーマンスを日常で無意識にやっていることと変わらない運動へ持っていくのが練習という習慣であり、それには膨大な時間がかかる。
その実現のために、メンタルの浮き沈みが無く、1回1回の練習に自分なりの目標や意義を考察し、認知バイアスに影響されずに評価し、実感しつつ、淡々と続ける人が上手くなる。

そして淡々と続ける人が目標としているのは競技における順位(金メダルとか)といった社会的成果ではなく、その社会的成果を得るために必要なパフォーマンスの成功率を獲得することなのだと思う。

おそらく天才と呼ばれる人たちは、素養や環境に恵まれているだけでなく、若いときにそれに気づいて淡々と練習をこなしてきた人たちだ。
そういう人たちは栄光と言う名の社会的成果に興味がないように見えるし、やる気すら薄く感じるので、他人には努力していないように見えたり、理解不能だと考えるのだと思う。
理解できないので人は「天才」という言葉で片付けるのだ。

ただ、この「淡々と」というのも才能らしい。
カッコだけ淡々にやっているだけでは効果が出ないと、為末大さんが講演で仰っていた。
それが最大の「持っている」かどうかの境目なのだと思う。

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スケベタマシイ

ギター教室Bの先生から言われた。
「聞いてもらうという意識を持たなければ上達はない」
うぬぬ、真理である。しかしね。
「もうそんなスケベ心はないのですよ」
と言っておいた。

その前の日、空気公団の山崎ゆかりさんとザ・なつやすみバンドの中川理沙さんのコンサートを見てきたばかりだ。
なんというか、「持ってる人」には絶対かなわないって思った。歌。特に歌。

このコンサートは、中川さんのコンサートで、山崎さんがオープニングアクト(前座)。
いやいやいや、普通逆だ。バンドの格で言うと、

「空気公団」>「サ・なつやすみバンド」

だ。
というのは、今回は「山崎さんがお気に入りの中川さんという才能を空気公団のファンに紹介する」のが主旨。
なので、小さい小さい会場、しかも中川さんの地元。
どんだけ中川さんのこと好きなの?もしかしてデキてるの?ねえあなたたちデキてるの?(最低)

山崎さんという人は、芸術家でエンターテイナーではない。
それが許されるくらいのスキルがある人なので、MCが上から。ファン以外はガン無視のトーク。


さて、私はギターはまだしも、歌がダメなのだ。
歌えるよ。っていうか、ギター教室の先生ですら「その曲。私は弾きながら歌えません」っていうことすらできるんだけど、声に魅力がない。低いし。どうしようもなくどうしようもなくダメだ。
音楽そのものが「もっている人」しか本来やっちゃダメなのに、歌なんてもうどうしようもない。

歌える誰かと組むなんてできない。なにせ1曲仕上げるのに数年かかる。
人と合わせられるほど器用じゃないのだ。相手が完全にこちらに合わせてくれるらな良いけど。
「嫌われたくない、好かれたい」というスケベ心がいっぱいあるならやれるのだろうね。

空気公団「悲しみ知らん顔」


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彼岸を超えて(「少女終末旅行」感想メモ)

まだ読み込みが足りないのと、考察が足りないので感想メモ。

■終末世界と楽園
私曰く「終末世界楽園モノ」というジャンルがある。ディストピアとはちょっと違う。
彼岸への憧れの甘い部分だけを抜き出したような、そんな感じ。
諦めることで人間の良いところだけ残るような、そんな感じ。
私はそういうの嫌いだった。
だって人間が諦めるなんてあるか?それに追い込まれれば追い込まれるほど嫌なところが残るのが人間だ。
だから「ヨコハマ買い出し紀行」とか。最初は「お」と思ったけれど、話が進むうえで自慰的閉塞感がひどくて吐き気すら覚えるようになった。


■アニメ版の意図と役割
アニメ版の「少女終末旅行」も最初そのジャンルかと思っていた。
いかにもなアイテムと絵柄だったから。
「少女終末旅行」は確かに「終末世界楽園モノ」ではあった。でも徹底的に絶望に裏打ちされた楽園だ。
確実に人類の絶滅は決定している。主人公二人もわかっている。
アニメ版は、「終末世界楽園モノ」としての体裁をとって、エンターテインメントとして原作4巻までのエピソードで完結している。

アニメ版でも最後に神様(エリンギ)から、もう生きている人間は二人だけということと(イシイとカナザワは死んだのだ)、地球が終わることを宣告される。
ここでもちゃんと将来的な絶望で終わっている。

でも主人公二人にとってはどうでもいいことなのだ。はじめから絶望世界に生きてるんだから。
アニメ版はエンターテインメントとしてそういう意味でうまい作りだ。幼い子が見ても主人公たちの旅が続くことで絶望しないで済む。
すごくよく作られている。渾身の作品だ。
アニメ版を読んでから原作5巻から読んでみるのが良いくらいだと思う。

アニメ版は原作に続いていることがわかる。
むしろ原作を読んで欲しい、とクリエーター側も願っているように感じた。
なぜなら主題歌の歌詞の放映されなかった2番にある。
「温かいコーヒーすするように ずっと待った甲斐 それがいま示すから」
原作の最後で主人公が飲んだのはコーヒーで、待っていたのは彼岸だったのだと思う。


■神様
この作品には人造の神様が出てくる。
ひとつは人工知能で、その目的は機械と人間との仲立ちだという。「双方の価値を折衝して安定した方向に導く」とのこと。つまり機械と人間の対立があったのだ。
しかし上手くいかなかったらしい。自らを「失敗作」として主人公たちに自殺ほう助させて「死ぬ」。

もうひとつは、エリンギ(仮称)だ。
これが人間から崇拝されていたことが、旅の中でわかっている。
でも、これもきっと人造のものだ。
主人公らがタイフーン級潜水艦レプリカの中で見た、過去のカメラ映像にあった「機械進化論研究会」の成果。あれの系譜だろう。
エリンギの目的は、人間によるエントロピー増大の阻止だ。
人間が創った熱的に不安定な物質(燃料や火薬)を安定化してまわっているようだ。
つまり、人間は自らの終息を願い、エリンギに託し、神として崇めた。
滅亡は人類の意思だったようだ。
…主人公らが昔いたコミュニティの騒乱を思えば、そんなことしなくても勝手に絶滅したと思うが…

そして、おそらく人類の後継者たるべき機械=神は、No.3ロケットで宇宙へ旅立った。


■死ぬということ
物語は44話から急速に収束へ向かう。
それまでのお気楽感が消え、悲壮感が漂うようになる。
物資は底を尽き、大切にしていたものを捨て、生きていた証ともいえる日記すら燃やし、暗闇の螺旋階段を上って目的地を目指す。
そこに理由はない。ただ死ぬため、とも言える。
でもそれが生きるということだと、二人が教えてくれる。

「生きるのは最高だったよね…」「…うん」

新しい朝を迎えた二人は目的地で抱き合って眠る。
旅してきた巨大な階層都市の風景と崇められてた神々が何ページにもわたり描かれ、そして、二人が消えている。
神と出会ってしまった二人に天国も地獄もない。
きっと二人はこの終わる惑星にある瓦礫の都市の一部になったのだ。


■人類の終焉と音楽
実は私は前から人類は終了するだろうと思っている。
機械や人工知能に引き継いで。
あまりにも人間は機能的に愚かだ。そういう風にできている。
その限界を超えることはできない。

そしてとうとうエンターテインメントとして、それを描く作品に出会えた。
人類の終焉は確信に変わっている。

昔、落ち込んだプロミュージシャンを慰めるべく一緒にお酒を飲んだ時、その人が言った言葉がずっと心に残っている。

「この世に価値があるものなんて音楽しかないと思わない?」

そう、この物語で、神様(エリンギ)が人類から受け継いだただひとつのもの。
それは音楽だった。

テーマ : 感想
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プロフィール

なお

Author:なお
いいトシしてバイクの免許を取得。
相棒はDUCATI MONSTER696とHONDA solo。
バイク以外の趣味はお菓子作り。
MtXです。

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